歴史学習のフックとしての国語教材―「羅生門」の事例から

2017年06月22日

先週足立区の学習会でOGの女子高校生から、次のような質問を受けたのが筆者には非常に印象的であった。すなわち、彼女の疑問は、「芥川龍之介の小説「羅生門」は、なぜ「羅城門」と(歴史上正確な)名称を付けなかったのか」という内容であった。

ここで、芥川龍之介の著名な短編小説「羅生門」について解説するつもりはない。ただ、筆者にはとりわけ日本史に興味を持っているようには見えない女子高生が、羅城門と羅生門の由来に興味を抱いている事実にささやかな感銘を受けたのである。

同時に、このような文学史の問題に興味を示した女子高生の学習意欲を、何とかうまく日本史や世界史の学習へと誘引することが出来はしないかと、密かな期待感がその後筆者に生じたのも事実である。

そこで、少し最近の高校国語教科書の内容について調べてみた。すると、平成11年4月の学習指導要領改訂の結果、従来高校で教えられていた「国語Ⅰ」と「国語Ⅱ」が廃止され、同15年4月から新たに「国語総合」という新科目が登場した。そして、何とこの「国語総合」の採用教科書全て、つまり10社20種の全教科書において芥川の「羅生門」が採録されているということであった(奥谷俊子「文学作品における新しい指導法の開発―芥川龍之介「羅生門」における新しい教材観―」1頁、

https://www.kochinet.ed.jp/center/research_paper/H18_daigaku_kenshusei/11okutani.pdf)。

そして、この「国語総合」という教科は、多くの高校で1年生の段階で履修されるとのことである(奥谷、同上1頁)。確かに我が娘の通う高校のカリキュラムを見ても、「国語総合」は1年次に配当されており、2年次になると「現代文B」「古文B」がそれぞれ配当され、さらに3年生になると文理とも付加的に「演習」が配当されるように組まれている。

これから推察すると、おそらくOGの彼女も高校1年生であることから、学校で受けた「国語総合」の授業を通じて芥川の「羅生門」に接し、おそらく彼女自身ではなく先生から何らかのサジェスションを受けて冒頭のような質問を投げかけてきたのであろう。

筆者が質問を受けた時点では咄嗟のことであったため、余り深く考えもせずに概略以下のような答えを述べた。すなわち、「羅城というのは、中国の都市が外敵から街を守るために築いた城壁のことだ。日本でも朝廷が平城京や平安京といった都を築いたときに中国の都城の真似をしたのだが、日本の朝廷には余りお金が無かったので街を取り囲む羅城は築かず、門の所だけを築いてそれを羅城門と名付けた。都の正門である羅城門から真っ直ぐ北に進むと大内裏という今の霞が関のような官庁街(宮城)に行き当たるが、その正門を朱雀門と言い、その2つの門を結ぶ大通りが朱雀大路だ。ところがいつの間にか(平安中期の10世紀頃)すっかり廃墟となって、羅城門も羅生門と当て字で呼ばれるようになった。城より生の方が、語感が良いからかもね。芥川龍之介は、それをそのまま使ったのだろう。「羅生門」のお話は、門の楼上で死体の髪の毛を抜いて鬘を作って商売にしていた老婆から衣服を剥ぎ取る下人が盗賊になるという、少し不気味な粗筋だったよね。文学史は調べると面白いから、少し勉強してごらん」と。

今から考えると、この説明は必ずしも正確ではない個人的な印象論に基づくものである上に、もっと彼女を日本史と世界史に興味を持たせるように、より視野の広い説明を加えるべきであったと筆者は反省している。

例えば、日本の朝廷が敢えて平安京に羅城を築かなかった理由について、日本では663年の白村江の戦い以後の一時期を除いて外敵が都に襲来する脅威自体が想定外だった(刀伊の入寇は11世紀前半の寛仁3年で、「羅生門」の話よりやや時代が下る)し、内乱の脅威も10世紀前半の平将門・藤原純友の乱(承平天慶の乱)が起きた他には無かったため、財政上の理由以外にも当時の朝廷にはそもそも羅城を築く必要性自体が認められなかったと言うことができただろう。

また、日本に比べると大陸国家である中国では古代殷周や春秋戦国時代の昔から北方や西方の異民族が到来する脅威が常にあったことや、黄河中下流域の中原でも封建諸国家間の激しい戦争に常時さらされていたために羅城が絶対必要であったことを説明することが出来ただろう。場合によっては、黄河文明の説明に加えて古代世界の四大文明の比較についても、話を敷衍することが出来たかもしれない。そうすれば、筆者の不十分な説明に目を輝かせて聞いていたOGの彼女の歴史学習に対する意欲が、今後大いに喚起されたかもしれなかったのである。

もし筆者が即座に彼女に上記のような説明をしていれば、それまでさほど歴史に興味を持っていなかった女子高生でも、あるいは古代中国史や日本史を連関させて理解してみようとする学習意欲が沸き起こったかもしれないのである。その機会を逃してしまったかもしれないことが、筆者には悔やまれてならない。

国語教材としての「羅生門」の話題は、中高生の歴史学習のフック(鉤)として使えるだけではないのかもしれない。例えば、承平天慶の乱以後の平安中期に、京の正門である羅生門がなぜ死体置き場のような廃墟となってしまったのかに関しては、京都の歴史だけでなく地理的な学習にも応用できる素材であろう。

なぜなら、桂川の低湿地帯であった右京南部は10世紀頃には人も住まない程寂れていて、それがそのまま羅生門の荒廃と関係していたからである。『百錬抄』によれば、天元3年(980年)7月9日の暴風雨で羅生門は倒壊し、以後再建されなかった。当時藤原氏など貴族達はもっぱら左京北部と鴨川東岸に住んでいて今で言うところの洛中洛外が形成され、貧しい人々は京内南東部に密集して居住するようになっていた。こうした当時の都の地理が、「羅生門」に登場する老婆や下人のエゴイズムと悪の輪廻を肯定する論理に説得力を持たせているからである。

芥川龍之介の「羅生門」の元ネタは『今昔物語集』本朝世俗部巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」と巻三十一「太刀帯陣売魚姫語第三十一」であるが、この物語の時代背景を一応考察すると、後の摂関家の始祖で平将門の主君でもあった藤原忠平(貞信公)が摂関政治を開始し、律令体制が事実上崩壊して一種の徴税請負人である富豪による土地支配(負名)体制が生まれた結果、将門や純友のような中央貴族の末裔を指導者に担ぐ武士階層が各地に誕生したと言えるだろうし、そうした社会構造の変化が権門である中央貴族と寺社の私領である荘園の全国拡大を促進したとも説明できるだろう。

また、『今昔物語集』巻二十八「信濃守藤原陳忠落入御坂語第三十八」の貪欲逸話で有名な藤原陳忠や、尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらげぶみ)で苛政31か条を朝廷に直訴された藤原元命など、律令政治下での四等官である守、介、掾、目の国司制度が廃れて受領が台頭し私腹を肥やすようになったのも、正に「羅生門」の時代なのである。

こうした当時の日本や京都の歴史的・地理的な背景までしっかり説明してあげれば、それまで歴史に興味の無かった高校生でも、あるいは日本史や世界史に関する学習意欲を高めることが出来たかもしれないと今更ながら筆者は感じたのである。

小塚 郁也 | 2017 | Salam !
Powered by Webnode
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう