日本社会の格差と「貧困の世代間連鎖」に関する考察

2018年01月15日

筆者が足立区や世田谷区で恵まれない子供たちへの学習支援ボランティアに参加している理由は、いわゆる「貧困の世代間連鎖」を断ち切るためである。ところが、その大前提である我が国における「貧困の世代間連鎖」については、マスメディアによって最近声高に叫ばれているものの、その実態はそれ程はっきりしていない。何しろ、我が国での社会学や教育学(教育社会学)での従来の研究成果では、信頼できる政府等公的機関による統計データの不備もあって、所得の世代間連鎖に関する実証的な研究成果の積み上げが今なお不十分な状態であるからだ。

他方で世代間の階層移動については、1955年以来10年に1度、社会学者によって無作為抽出法で実施されているSSM調査(社会階層と社会移動全国調査: The National Survey of Social Stratification and Social Mobility)の2015年までの貴重なデータが蓄積されている。だが、そのデータから検証できるのは主に専門・管理職の上層ホワイトカラーや非熟練ブルーカラーといった職業階層の世代間移動の不平等についてだけであって、肝心な被調査者の親の所得に関するデータ収集が欠落しているため、社会を蝕んでいる機会不平等の重要な指標である世代間の所得移動については直接検証できないのである。

貧困の世代間連鎖とは、「貧困な家庭に生まれた人は、貧困ゆえに十分な教育を得ることができず、このため良い仕事に就けず、所得も低い」こと(佐藤嘉倫・吉田崇「貧困の世代間連鎖の実証研究」『日本労働研究雑誌』No. 563 / June 2007、75頁)であると一応定義しておこう。この定義によれば、貧困の世代間移動や非移動(固定化)を検証するためには、父(母)の所得と本人所得との間での世代間移動を分析するとともに、調査対象者が特定の職業階層へ入職するに至るまでの地位達成過程を分析する必要があるだろう(同上、75頁)。

ところで一般的に言うと、1990年代初頭のバブル経済崩壊とともに、我が国では格差拡大や階層移動の閉鎖性が増大したと言われている(代表的な著作は東大教授の佐藤俊樹『不平等社会日本――さよなら総中流』中公新書、2000年)。佐藤教授の本によると、子供が社会的威信の高く所得も多い「ホワイト雇用上層」に到達するためには、その子の父親が既に同一階層であることが重要になり、知的エリートの再生産が進んで日本社会の機会の平等は失われつつあるということになる(石田浩「世代間移動の閉鎖性は上昇したのか」、東京大学社会科学研究所パネル調査プロジェクト・ディスカッションペーパーシリーズNo. 17、2008年11月、1頁参照)。バブル崩壊とともに日本社会の階層は固定化し、「努力してもしかたがない」機会不平等の階級社会が到来したのだと佐藤教授は言うわけである(同上)。

しかし、この格差社会到来論については、戦後日本の世代間階層移動のパターンは安定しており、大きな移動は見られないという有力な反論がある(同上)。言わば、日本の格差社会は戦後ずっと継続してきた伝統的なもので、何も今に限ったことではないという反論である。また、階層の世代を超えた固定化は知的エリート層ではなく資本家経営者層で高まっているという指摘もあるし、2000年代以降は階層固定化の負の連鎖が物質的側面と言うよりも、むしろ対象者が育った家庭の文化を背景として、子供のインセンティヴや希望、コミュニケーション能力のような意識面(今特に注目されている「非認知能力」)での格差が拡大しているという主張も出されている(同上)。

いずれにせよ、一般国民に持たれているイメージとしては現代日本社会には大きな格差が存在し、上層ホワイトカラー層だけでなく非熟練マニュアル労働者層においても世代間継承が強まっていて、欧米社会のような富裕の連鎖のみならず貧困の連鎖もあると否定的に認知されているのである(佐藤・吉田「貧困の世代間連鎖の実証研究」80-81頁; 同上、2頁)。

さて、肝心要の所得の世代間継承について、アメリカでは1990年代になって30年近くの所得動態パネル調査(Panel Study of Income Dynamics)等の縦断調査の蓄積ができ上がった(佐藤・吉田、78頁)。したがって、アメリカでは世代間所得移動の研究が現在盛んである。そして、それらの研究結果によるとアメリカ社会の機会平等のイメージは間違いで、世代間の所得移動がかなり固定的であるという(同上)。 

アメリカは移民の国であり、誰でもその出自に関係なく富裕層やエリート階層に参入するチャンスが与えられるという機会平等の建前がある。こうしたアメリカン・ドリームは、アメリカ民主主義の礎となっている(浅沼信爾「書評 もう一つの「格差論」」<https://www.sridonline.org/j/doc/j201508s07a02.pdf>、1‐2頁)。ところが現在のアメリカ社会では、1980年代に不平等への転換が起こり、90年代にかけて所得格差が拡大した。トップ1%が国民総所得に占めるシェアは79年から92年に5割増え、2012年に1979年の倍以上、国民総所得全体の約20%を占めるに至った(棚田光亮「21世紀の不平等 アンソニー・B・アトキンソン」書評、平成28年2月1日)。

この不平等への転換は経済学者によると、79年の第2次オイルショック後のスタグフレーション(不況下の物価高)を克服するために促進された経済のグローバル化と技術の変化に起因するものだというのが定説であろう(同上)。同時にアメリカの大学では80年代から90年代にかけて授業料が約10倍も急騰し、奨学金も給付型から貸与型中心に移行した。ローンによる教育費負担は低所得層に重いため、そうした家庭の子供の進路選択に影響を与え、その結果として進学率の所得階層差も拡大し、教育における不平等が拡大したと言われる(小林雅之「高等教育機会の格差と是正政策」『教育社会学研究』第80集、2007年、105頁)。

経済のグローバル化に伴って技術変化に素早く対応できる先進国の富裕化とそうできない発展途上国の多くとの間に経済格差が広がるのと同様に、高度な教育を受けることのできる熟練労働者とそうでない非熟練労働者との所得格差も当然広がるという認識である。このアメリカで生じているような知識社会化の進展によって、日本でも高度な知識と技能を持っている者とそれを持たない者との所得格差が拡大していくとすれば、学歴間の所得格差もますます拡大し、その結果として次世代の教育機会の格差も拡大する可能性が高いと思われる(同上)。

現代グローバル社会のトップ1%とその他99%との所得格差の拡大をセンセーショナルに浮き彫りにしたのは、トマ・ピケティの『21世紀の資本論』(邦訳、みすず書房、2014年)であろう。ピケティの議論は格差拡大の原因を資本収益率(r)>経済成長率(g)という唯一の式に単純化し、その解決策としてrをg以下に引き下げるために国際協力で資本にグローバルな累進課税を行おうという、その実行可能性にいささか疑問が生じる提案なのであった。

現代アメリカ社会の格差と機会不平等の拡大について筆者がこの年末年始休暇に読んだ本は、かつて『孤独なボウリング: 米国コミュニティの崩壊と再生』(邦訳、柏書房、2006年)でアメリカ社会の分断と崩壊を論じて話題となったロバート・パットナムの2015年の著書、『われらが子供たち』(Robert D. Putnam, Our Kids: The American Dream in Crisis, New York: Simon & Schuster, 2015)である。

ピケティの言うようなトップ1%の超富裕層に対する反発が、Occupy Wall Street! 運動(浅沼、前掲、1頁)やラストベルト(Rust Belt)のトランプ現象をリーマンショック後のアメリカ社会に生じさせたことは事実であろう。だが、パットナムの格差論で興味深い点は、1%の超富裕層とその他99%との格差拡大を焦点に論じているのではなく、むしろその他99%が学歴に応じて富裕層(大卒者)と中間層(専門学校卒)、貧困層(高卒者)にほぼ三分の一ずつの割合で分断されていて、もはやアメリカン・ドリームの基礎である機会の平等はアメリカ社会から失われていると指摘している点である(浅沼、前掲、1-2頁)。

パットナムはアメリカの貧困層誕生の原因として、第二次世界大戦後の性の解放と家族の崩壊を指摘している(同上、2頁)。つまり、貧困層における早婚化とシングル・ペアレントの増加が貧困を加速させるとする。その一方で富裕層では晩婚化と共働きの普及で計画出産が広がり、家庭の形が貧困層とは全く異なる他に、住む場所も貧困層と地域的に隔離する。その結果、双方の子供の間には知的・文化的・社会的に良い仲間に恵まれるかどうかの違いが生じ、それが子供たちの能力ギャップを導くというわけである(同上)。

そもそも富裕層家庭では居住地域や職場での人間関係が広く、勉強その他子供の将来に関わる有益な情報の入手という点で貧困層より遥かに有利な立場に立っている。逆に貧困層家庭では、社会的に孤立していて有益な情報を獲得できない場合が多い。これは筆者の余り多くない学習ボランティアの経験からも、大いに実感できる事実である。

パットナムの指摘した99%内での階層化に対処するためには、ピケティの言うような超富裕層への課税強化だけでは明らかに不十分である。より詳細な、所得格差是正以上の社会福祉政策が必要となるであろう(同上)。

さて翻って我が国の機会不平等と世代間所得移動の固定化の問題に立ち返ってみると、パットナムが現代アメリカ社会に関して指摘するような、明確な階層と格差の固定化については未だ論争があって結論には至っていないと言えるだろう。東京の山の手(23区西南エリア)と下町(23区北東エリア)の居住者間で世帯所得平均の格差が存在することはよく知られているが、まだアメリカのように完全に富裕層と貧困層の居住地域が隔離しているとまでは言えないだろう。日本の都市部では、まだ富裕層と貧困層が混在しているというのが筆者の印象である。それだけに日本では、アメリカのような人種差別がほとんどない点も有利なので、社会の分断はまだそれほど進んでいないと思う。今本気で取り組めば、社会の分断を抑制して昭和時代のようなコミュニティを再生させることも可能であろう。

日本での所得格差の論争については、橘木俊詔・京大教授が『日本の経済格差――所得と資産から考える』(岩波書店、1998年)で近年のジニ係数(所得格差の指標)の増大傾向を指摘したのに対して、大竹文雄・阪大教授が『日本の不平等――格差社会の幻想と未来』(日本経済新聞社、2005年)でジニ係数の増大は元々所得格差の大きい高齢者世帯の増加によるもので、日本社会全体の格差が広がっているわけではないと反論している(佐藤・吉田、前掲、76頁)。実態としては、少子高齢化による人口動態と家族形態の変化が、格差拡大の背景にあることは確実であると思われる(同上)。

我が国の貧困の世代間連鎖について親子間の所得移動を検証した佐藤・吉田の前掲論文では、「格差がある程度大きくても、出身所得階層に関係なく高所得者になれる機会があるならば、やはりある意味で活力のある社会」(同上、77頁)だとされ、実証の極めて難しい貧困の世代間連鎖について、結論として、日本では「貧困の連鎖」よりも「富裕の連鎖」、すなわち富裕層の階層移動の固定化が、教育と現職を媒介にしてむしろ進んでいることが指摘されている(同上、82頁)。

同論文では、「富裕の連鎖」を引き起こす背景として出身階層が教育達成に強く影響すること、つまり父所得が高くなるほど子供の学歴が高くなるため、父所得が階層上位の人は高学歴を経て威信の高い現職に就いていること、そして威信の高い現職は本人所得を高めるという現象(「富裕の連鎖」)を指摘する(同上)。

そして、日本の主要マスメディアの現在の論調のように貧困の世代間連鎖だけに焦点を当て過ぎると、世代間所得移動の全体的パターンを見落とすことになり、妥当な政策の選択を困難にすることにも繋がりかねない(同上、82-83頁)。例えば、父から子への所得の直接移転によって富裕層の世代間連鎖が生じているならば、所得累進課税や資産課税、相続税の課税強化によってそれを緩和させることが可能であろう(同上、83頁)。だが、基本的に個人の選択に委ねられる教育と職業を媒介として富裕層の固定化が生じているならば、それを課税によって緩和させることは政策的に困難なのである(同上)。

そこでこの年末年始の休暇中に、筆者はもう1冊、英国の経済学者で著名な格差・不平等研究者であるアンソニー・B・アトキンソンの著書『21世紀の不平等』(山形浩生・森本正史訳、東洋経済新報社、2015年)も読んでみた。なぜなら、同書第2部では15の政策提案が具体的に示されており、英国の特殊事情に基づく提案を別にしても、我が国の格差の世代間連鎖を是正する政策として参考になるものがいくつか発見できたからである。

特にアトキンソンが第5章で述べている雇用に関する政策提案と、第6章で述べている資産の再分配政策は大変興味深い内容であった。我が国でも「不平等への転換」は英米同様に80年代から起きていると思うが、英米ほど、国民所得における資本収益率や経営者報酬のシェア拡大(と、その反面として賃金シェアの縮小)が生じたわけではないと筆者は考える。バブル崩壊後に我が国での所得格差を拡大させてきたのは、グローバル化と科学技術の変化に対応するために熟練した知的労働者の賃金プレミアムが拡大したことの他に、終身雇用慣行を前提として構築されている社会保障制度が、この間に急速に進んだ非正規雇用の量的拡大とその劣悪な労働環境を放置してきた影響がむしろ大きいと考える(棚田、前掲書評)。

そこで、アトキンソンの著書第5章の提案3と4が参考になる。それは、非正規雇用が増大している21世紀の労働市場においては、政府は雇用の最大化よりむしろ非自発的失業率の最小化(2%程度)を目標として設定すべきこと、そして、生活賃金で設定された法定最低賃金による公的雇用保証を国民に提供することである。第6章の提案5も面白い。それは少額貯蓄者の金融資産と年金への投資収益率を向上させるために、政府が1人当たりの保有高に上限を設けた上で国民貯蓄国債を発行して、経済成長率プラスαの実質金利を少額貯蓄者に保証するという内容である。

アトキンソンの提案は、国内社会の不平等縮小のためには所得再分配に関する税と社会保障制度の改革だけではなお不十分で、雇用と労働の現行制度を改めて賃金と資本所得の分配率を見直し、さらには個人資産の集中を減少させることなど、多様な内容を含んでいる。いわば、再分配と雇用制度・労働市場改革のポリシー・ミックスと言えるものである。税制改革について彼は、個人所得税の累進性強化が必要であるとして、例えば最高税率を40%から65%に引き上げることを提案する(提案8)。その一方で、低所得者の累進税率低減のために、最低所得区分のみに対する例えば20%の勤労所得割引を提案する(提案9)。これはつまり、課税最低限の金額が8千ポンドならば、勤労所得だけの人は収入が1万ポンドを超えるまでは課税されないことを意味している(棚田、前掲書評)。

また、社会保障制度を通じた再分配についてのアトキンソンの提案は、いわば全子育て世帯に対するベーシック・インカムとも言える全児童を対象とした課税所得扱いでの児童手当の支払いと、大人に対する参加型所得の支払いを提案している(提案12、13)。この参加型所得(PI)とは、勤労の他に教育、介護、ボランティア活動に参加した際に支払われる手当であるとされる(棚田、前掲書評)。この提案12と13については、財源が逼迫しており、バラマキ批判が非常に根強い我が国で導入することは極めて困難であろう。

日本では与党の平成30年度税制改正大綱により、平成32年度分より給与所得控除額の一律10万円引き下げと上限額195万円への引き下げ(上限額が適用される収入金額は850万円超、但し子育てや介護世帯に対する特例あり)、その代わりに基礎控除額の一律10万円引き上げ(年収2400万円超で基礎控除額を段階的に縮小し、年収2500万円超ではゼロとする)という見直しが実施される見込みである。

これは簡単に言えばサラリーマンで年収850万円超の人が増税(税収増900億円見込み)、フリーランスや自営業者など個人事業者が減税となるという税制改正である。政府の目的は働き方の多様化に対応するためであるとされるが、非正規雇用の労働者には全く関係ないし、2017年10月から最低賃金が全都道府県加重平均で823円から848円に25円上昇したものの、現在958円の東京の最低時給が1000円の大台を超えるにはまだ1年以上かかりそうである。

他方、厚生労働省では生活保護受給額の引き下げが現在検討されており、同省の推計では受給額が減額となる世帯の割合は子どものいない世帯で69%、特に単身世帯では78%に上る見込みである(『毎日新聞』2017年12月22日)。こうした政府の最近の政策を見ると、我が国ではアトキンソンが提案するような再分配の強化と雇用制度・労働市場改革のポリシー・ミックスに到達するには、まだまだ道半ばという感があることを否めないだろう。

小塚 郁也 | 2017 | Salam !
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